先月、関西で演奏する機会をいただきました。
このコンサートを終えて、私は『演奏すること』『人に聴いていただくこと』について考え方を大きく変えることになりました。衝撃的事件といってもいいくらいの。
高齢者施設に入所されているご夫婦で、プライベートコンサートを企画した方のお世話でお邪魔いたしました。
甥のテノール歌手、山本耕平 をかわいがってくださる、私の父(彼の祖父)の80年来の友人であるその方のために
92歳の父と甥が、同郷で東京で活躍中のピアニストの 中ノ森めぐみさんを引き連れて、(たまたま二人とも米子市に帰省中でした)関西に向かうというので、運転手を引き受けたのです。
きっと、父が私も音楽をやっていることを話したのでしょう、娘さんもごいっしょなら、少し演奏してください、とお声かけくださり、厚かましくも2曲ほど演奏させていただいたのです。
これは中庭の一つですが、それはもう立派な施設で入所者の方々もおそらく華々しい現役生活を終えられたハイソサエティな人々だと思われます。
私は宝くじが当たらない限りご縁のないところです。
施設内で出会うすべての入所者の方は施設内を歩いているだけなのに、きちんとした服装で、アクセサリーもお化粧もヘアもきちんとしていらっしゃいます。
そんな施設内のホールで演奏いたしました。
甥は楽しいトークと、イタリアから持ち帰ったばかりの本格的なオペラアリアやカンツォーネを披露し、大盛り上がりで満足していただきました。
間で休憩がてら、と申し上げてグノーのアベマリアなどをフルートで演奏しました。後で伺ったら、たいそう喜んでいただき、中には涙を流して聞き入ってくださった方もあったと後日ご丁寧なお礼状が届きました。
主催した奥様は
「わたしたちは本物に飢えているんです。もう、そういうものに触れることはかなわないかと思っていました。この施設でも年に何度か、施設側が企画したコンサートがあります。でもほとんどが、旬を過ぎた人たちや、老人だから、と昭和歌謡を歌ってくれるバリトン歌手とか・・・・・。みなさん、本当によろこんできださいましたよ、お礼の電話が私たちの部屋にひきりなしです。」と。
ここにいらっしゃる多くの方は、おそらく一流の演奏家のコンサートに親しんで暮らしてきて来られたり、海外に行っていいものに触れてこられた方々です。お年を召した方というくくりで、こちらの思うイメージで提供することは本当に失礼なことなのだと知ったのです。
でも、施設が高級だから、というだけではなく気づいたのです。
人生を長く経験なさった方々は、それぞれにいろいろな豊かな経験を積んでこられた方々です。
それぞれに感性を磨いてこられ、最終ステージに到達されてきた方々なのです。
高齢の方だから、こうだろう、と乏しい想像力で音楽を提供することは罪なこと、私のおごりでもあるのではないか。と思えてきました。
そして、演奏をお客様に聴いていただくとは、どういうことなのかということを考えました。
聴く人はそれぞれ違った人生を歩んでいて、その経験の内容も長さもそれぞれです。こちらがこうだろう、と想像すらできないことです。
そして、
豊かで長い時間経験を重ねてきた人も、若く、経験も浅い幼い人も音楽を聴いた時に感じるこころはどんなものか人それぞれなのです。一人一人が自分の受け止め方をするするだけなのです。
演奏する人がそれをたぶん、こういう人だから、こう受け止めるだろう、などと限定することはできないはずなのです。それは奢りかもしれない。
演奏者は真摯な態度で作品から発信される情報を素直に受け止め表現するだけ。こうやったらウケるなどは邪心かもしれない。もっとピュアできちんと作品に向かい、ベストをつくす、そこから聴く人は自分の感性でそれを感じ取る、それだけ。
ああ、もっと、もっとまじめに真剣に音楽に向き合わなくては!
素敵な場所で、素敵なコンサートに参加させていただいただけでなく、私の演奏家として(あつかましいですけど)の考え方をアップデートさせていただくことができた貴重な経験でした。